向日葵3




頬を撫でて行く潮風に促されるように、ゆっくりと重たい瞼を開ける。
まるで己の身体では無いかのような気だるさが全身に残るが、
僅かに身じろぐだけで腹の傷から響く鈍痛に、ぼんやりと意識が覚醒していく。

(…ここは、どこぞ……)

傷の痛みに顔を顰めながら、無理やりに上体を起こして辺りを見回す。
見覚えのない和室の褥の上に寝かされていたようで、自分では着がえた覚えもない夜着を着せられていた。
肌を撫ぜる潮風は、どうやら窓際の障子が開いているからのようで目を閉じて耳を澄ますと、ザザンと打ち寄せる波の音が響いた。
おそらく眼下には雄大な瀬戸海が広がっているのだろう。

(我は、何故…)

生きている?


甲斐甲斐しく巻かれたさらしに手を当てながら、ゆるゆると記憶を辿っていく。
途切れ途切れな意識の中で最後に覚えているのは、瀬戸海を挟んだ四国の主、長曾我部元親と対峙していたということ。
船の上での戦闘に、追い詰められ、迂闊にも海の中へ落ちたところまでは覚えている。
だがその後の記憶がひどく曖昧だ。
濡れた衣服が肌に張り付いて、みるみる体温を奪っていく。
けれど意識を手放す直前、何か温かいものに身を包まれて、心の内で安堵していたことも事実だった。

(あれは……)

今となっては懐かしい人肌の温もりのように思う。幼き頃に父や母、そして兄から無限に与えられていた愛の証。
最後の最後まで握りしめていた指が徐々に冷たくなって、力無くぱたりと畳の上に落ちる様まで思い起こしてしまい、煩わしさに瞼を伏せる。
母は元々身体が丈夫な人ではなかったから、流行り病に床に臥せってから、息を引き取るまではあっという間だった。
母の白く細い指で髪を梳いてもらうのを何よりも好んで、幼き頃は長く髪を伸ばしては事あるごとにせがんだものだ。

(…遠い、記憶ぞ…)

それはまだ、己が姫と呼ばれていた頃の記憶。
何故こんなことを今になって思い出したのだろう。もう随分前に忘れてしまっていたと思っていたのに。

(煩わしい…っ)

父も兄も、ただただ毛利の家と、安芸のことを憂いて、逝ってしまった。
ひとり遺された己にはそのままでは何をどうすることも出来ずに、
城を追われてからは、ただ、強くあらねば、と、それだけを思って生きてきたのだ。
父や兄が、命がけで守ろうとしていたものを、守りたい。
安芸を守れるのは自分以外にはきっといない。
その為に、不必要なものはすべて捨ててきた。いくさ場に感情を持ち込むなど論外。
咽喉も潰して声も嗄れ、母との思い出を唯一繋いでいた髪も、女であることさえも、だ。

「……っ…」

己で決めたことのはずなのに、咽喉の奥からこみ上げてくる嗚咽を白くなるほど指先を堅く握りしめて、必死に押しとどめる。
今さら、後悔などない。
毛利の為にこの身の全てを捧げる覚悟がある。
安芸を守る為なら、どんな手段を使おうと、どんな非難を受けようとも厭わないと、心に決めたはずだった。



カラリと襖が開く音がして、この城の主であろう男が姿を現した。
京友禅で織られた質の良い夜着を着流して、その身を包む鍛えられた肉体は海の男と呼ぶに相応しい体躯の持ち主である。
陽に焼けた精悍な面をして、己とは頭ひとつ分くらいは背の丈が違うだろうか。
光を弾く白銀の髪に、瀬戸海の色を映しこんだような碧い瞳をしているが、左眼は傷ついているのか紫の眼帯で常に覆われていた。
外来の血が混じっているのだろうその珍しい外見は、先ず見間違えることはない。
四国の主―長曾我部元親―である。

「おっ…アンタ、やっと目ぇ覚ましたか」

どかどかと畳の上を無遠慮に歩きながら、元就のすぐ傍にどかりと腰を下ろす。

「………」
「アンタ三日も目ぇ覚まさなくてなぁ…。心配したぜ!」

二カっと鮮やかに笑いながら傷の具合はどうだ?と聞いてくるその声の主に、冷たく視線を移して問う。

「…何故、我を助ける。何が狙いぞ」

同じ問いかけを、同じ相手にしたような覚えもあるのだが、こうまで甲斐甲斐しく手当てされているのを見ると訝しく思えてきて仕方ない。
人質か、あるいは侵略の名目にされるか。
どちらにせよ、あまり良い考えは浮かばなかった。
現時点で我が身が敵の手に落ちているという事実は変えがたい真実であるのだ。

「あ…?…別にどうもしねぇよ。傷が治ったら、安芸に帰ればいい」
「…貴様、正気か?」
「正気って…っはは!…まぁそう思っても仕方ねぇか。
 ……俺はあんたを傷つける気はねぇよ、安芸にも書状を送ってある。傷が癒えたら帰りゃあいい」
「……っ!」

これまで幾度となく刃を交えてきた敵将に対する物言いとは、到底思えない。
けれど、平然と言い放つ長曾我部の言葉には嘘が含まれているようにも聞こえなかった。

「…理解、出来ぬ」
「あー…、んー……これ言うと……アンタ、怒りそうなんだけどなぁ……」

何やら言いづらいのか、癖のある銀髪をわしわしと掻きながら歯切れが悪そうにもごもごと口ごもる。

「…なんぞ…早う、言わぬか」

さっさと言えと言わんばかりに冷たい視線を投げつけながら、その先を言うように促した。
己を助けた見返りに一体何を要求されるのかと、若干強張った表情で身構える。
金、か。領地、か。
それとも…?

「……俺ぁ、おんなには手を上げねぇ。…それだけだ」
「…………」

一瞬、頭の中が真っ白になった。
どくどくと響く傷の痛みがなければ、おそらく右の拳で平然と殴り飛ばしていたに違いない。
この期に及んで一体何を言っているのだろう、この男は。

「…我を、…おなご扱いするでないわっ!!」
「そう、怒るなよ……綺麗な顔が台無しじゃねぇか」

たった今、そういう扱いをするなと言ったのを、どうやらまったく理解していないようだった。
鳥頭にも程があろう…そう思いながら、怒りを露わに怒鳴りつける。

「貴様はっ…!!」
「だってよう…あんな風に目の前で泣かれちまうとなぁ……」

(……?)
「…泣…く?」

誰が。どうして。いつ。どこで。
目の前の男の言い分と、反応を見ている限り、どうやら『泣いた』のは自分のようである。

「……」

夢か現か、
ひどく曖昧な記憶に紛れて、まさかとは思っていた。
こんなことがあるはずがない。こんな弱さなど、とうの昔に切り捨ててしまったと思っていたから。
人肌の温もりに安堵して、誰かの腕の中で泣いてしまった、などと、信じたくなかったのだ。

「………っ!」

あられもなく取り乱した己の様子を徐々に思い出して、頭の上から冷水を被ったかのごとくザーっと血の気が引いていく。
寝覚めの悪い夢かと思っていたことが、まさか現に起こっていたことなどと。
しかも一番知られたくない事を一番知られたくない相手に知られ、その上なんという醜態まで。
考え得る限り最悪の事態に、思考の裏でバチッと火花が散ったような感覚に
胸を打つ鼓動がどくんどくんと頭の中で反響しそうな程に聞こえた。
反面、嫌な汗が背筋を伝う。
そこから全身が凍りついていくように。

「…出て…ゆけ…」
「…あ?」
「今すぐ出てゆけ!!…貴様の顔など見とうない!」
「毛利?…どうした?」

視線を合わせようともせず、俯きながら珍しく取り乱したような豹変したその態度に、元親が心配そうに覗きこむ。
唇は震えているのか、やはり顔色があまり良くない。
顔を上げさせようと差し出した右手がバシっと弾かれた。

「…触るでないわっ!!今すぐ去ね!!」

そう言って憤り露わに向けられた瞳には、怒りと侮蔑と、それを覆い尽くすほどの悲しみがはっきりと見てとれた。
安芸へ帰すと言っているのに何をそんなに嘆く必要があるのだろうか。

(…何…だよ)

その迫力に気押されるかのように指を引く。
良くも悪くもこんな風に感情を露わにしている姿はひどく珍しかった。
常に如何なる場合でも一切崩れることのない表情を持つ、
氷の面と評された―毛利元就―その人らしからぬ動揺に、据え掛けた腰をゆっくりと上げる。

「……悪…かった……とりあえず…なんか食べられそうなの持ってくっから…」

一体なんと声をかけていいのか分からずに、半ば追い出されるような形で、そう言い残して、室を後にした。
三日間眠り続けていたのだ。きっと腹も減っているに違いない。食事を摂れば少しは落ちつくかもしれないと、そう思って。

(…毛利が、目ぇ覚ました…)

以前とは違う元就に対する執着と感情に、自分自身いくらか戸惑いながらも、目を覚ましたのを素直に嬉しいと思ってしまった。
それは、考えていた以上に傷の状態が思わしくなく、最悪の場合もある、と言われていたせいもあるのかもしれない。

あの時、腕に抱いた感触が忘れられなかった。
とにかく折れそうなほどに細くて、小さくて、頼りない背中。でもすごく柔らかくて。
意識はないのだろうが、腕の中に縋りついて擦り寄ってくる仕草が可愛くて、思わず口の端が緩んでしまった。
今までどれだけの重圧に苦しんできたのだろうか、少しでもいいからそれを減らしてはやれないだろうか。
敵将であるはずの相手なのに、そんな風に思ってしまう自分にただ苦笑するしかなかったのだ。

元就に対する執着、それが恋情であるということに元親自身気付けない程に。