向日葵4
とりあえず、胃に良くて食べやすいもんがいいかと思い、侍女達に頼んで慌てて白粥をこしらえてもらった。
食事の時間帯でもなかったから侍女衆の手を煩わせるのもどうかと思って、本当は己で用意してやりたかったのだが、如何せん炊事場に立った経験などあろうこともなく。
尚且つ、ここは殿方禁制です。とばかりに早々に追い出されてしまっては致し方あるまい。
「あっちち…」
盆に乗せて手渡されたそれを、零さないようにと慎重に元就の元へと運んでいく。
途中部下の数人とすれ違い様に、「あれ、アニキ。さっきたんまり食いませんでしたっけ」「ばーか、これはちげぇんだよ」と、そんな他愛ない会話を交わしながら。
自分で言うのも何だが、ここにいる奴らはほんとに気のいい奴ばっかりだ。
賊だ何だと名乗っちゃいるが、多少荒くれもんの集まりでも、義に厚く、情に脆い。
無茶ばっかする俺だけど何だかんだ言っても、ちゃぁんと付いてきてくれる。
不可能だとは思っても、あいつこのままここにいてくれねぇかなと、そうしたらあの剣呑とした雰囲気も少しは丸くなるんじゃないかと、
そんな取り留めもないことを考えてしまった。
まぁそんな考えなど、本人を前にすればいとも簡単に砕け散ることだなどとは露も知らずに。
「貴様、外に見張りの一人も置かぬとはどういう了見だ」
先程よりは幾分か落ちついた様子の元就の傍に、盆を持ったまま腰を下ろす。
見張りがいないと分かっていながらも逃げ出さないのは、やはり相当に傷の具合が良くないからだろうか。
潮風の入ってくる開け放たれた障子の方を向いたまま、まったく視線を合わせようとしないその態度に思わず苦笑してしまった。
「あ?…ああ、アンタは俺の客人って扱いになってるからなぁ」
「?!…尚の事、理解出来ぬわ」
驚きに振り向いた顔を宥めるように、己の手の中にあるものを指差す。
「まぁまぁ、白粥炊いてもらったからさ、食えよ。…ああ、毒なんて入ってねぇから安心しろ」
そう言って一口、元就が見ている目の前で己の口の中にいれる。ふわりと、米本来の独特の甘さが口の中に広がった。
「ほらよ」
「………」
膝の上に直接手渡そうとするそれに目もくれず、そのまま盆ごと勢いよく跳ね除けた。
ガシャリと畳の上に中身をぶちまけて、無残な姿でカラカラと乾いた音をたてて器が転がる。
「てめ…っ!…何て事しやがるっ!!」
「いらぬ」
「ああ?」
「いらぬ、と申しておる」
「は?」
「…敵の情けを受けてまで、生き永らえようなどとは思わぬ。…長曾我部、これ以上我に構うな」
いつになく鋭い眼差しで下から睨み上げてくるその視線は氷のように凍てついており、関わる者全てへの明らかな拒絶を物語っていた。
「……なっ…」
そのあんまりの言い分に、開いた口が塞がらない。
先程思い描いた淡い期待など頭っから木端微塵に出来るほど、噂に違わぬ良い性格をしていることに、この時改めて気付かされた。
頑なにいらぬとはっきりと申したにも関わらず、それから朝昼晩、さらには事あるごとに長曾我部は拒み続ける我のもとを訪れた。
やれ、庭に花が咲いたから持ってきた。だの、異国の珍しい彫り物には興味がないか。だの、ありとあらゆる話題を携えて、だ。
(…まこと酔狂な鬼よ…)
さすがに海を長く旅しているだけあって、長曾我部の話には度々心惹かれることもある。
けれど、そんなこと億尾にも表面には出さずに一瞥して、『早う、去ね』とばかりに冷たい視線を投げつける。
まったく持って、理解に苦しんだ。
何故それほどまでに我に尽くす必要があるのか。敵方の将など、とっとと決着をつけてしまえば良いものを。
安芸には我を於いて他に、あの地を纏め上げられる武将など今はおるまい。
早々に首を獲り、毛利一門にでも送りつけてやればそれで終いだ。
(そう、それで終い、ぞ…)
ふぅっと小さく溜め息を零す。
本当にもうこれ以上は、ただ煩わしいだけだった。
どうにか起き上る事の出来る身体を引き摺って、窓際にある障子のへりに腰掛ける。
カラリと開ければ、遥か眼下の瀬戸海から吹きあげてくる潮風が心地よかった。
愛おしそうに目を細めて空を眺める。ここからであれば、日中いつでも日輪の姿をこの目に拝むことが出来た。
手摺りに肘を寄せて凭れかかり、ぽかぽかと降りそそぐ柔らかい日差しにゆっくりと瞳を閉じる。
(分からぬ…斯様な生き恥を晒してまで、我は一体何をしておるのだろう…)
ここまで来たらもう、互いに意地の張り合いでしかなかった。
『食え』という言葉に、『いらぬ』と返すのが顔を突き合わせればの日課になりつつある。
もういい加減、一体いつになれば己に引導が渡されるのかと柄にもない事を考えてしまう。
平素であれば有り得ない考えに、それほどまでに心身ともに弱っているのかと口元に苦い笑みを引いた。
ふと、眼下に目線をやれば、庭先で野菜を干す侍女衆と楽しげに会話している長曾我部の姿が目に入った。
その周りでは精を出して畑を耕す男衆の姿も見える。
(…よくよく、よう人に好かれる奴よ…)
兵に怖れられ平気で切り捨てる、非難の眼差ししか向けられない、己とはまるで正反対。
『所詮捨て駒』と呼んだ事に激昂し、己の所業が信じられないとばかりに常に対峙してくる。
瀬戸海の海賊などと名乗りながらも、多数の部下に慕われ、民の信頼も厚いのだろう。
数日ではあるが、この城に滞在していて感じたことだ。…日輪の加護、日向の下を歩む存在の人間だと、そう思ってしまった。
(愚かな考えぞ…)
だからこそ、余計に分からないことが多すぎた。
何故自分などにこれ程まで構おうとするのか。
(…早々に首級を挙げ、安芸を制圧すればよかろうに…)
例え自分が女であったとしても、過去これまでの因縁の相手に変わりはないはずだ。
しかも己はもう負けを認めている。敗戦の将がどうなるかなど赤子の考えを持ってしても容易い。
(解せぬ…)
なのにも関わらず、このままこの身が果てるのを今はまだかと待たねばならぬとは。
周囲に楽しそうな笑い声が響くその姿を見つめながら、ただぼんやりとそんなことを考えていた。
「アニキ、毛利の野郎まだ…」
どんなものを持っていっても頑なに口をつけることは一切なかった。
けれど、どんなにひどい仕打ちを受けてもめげる事は無く、そのやりとりは見ている周囲が呆れる程に、根気強く続けられていた。
「ああ、まったく何にも口にしねぇ…あれじゃほんとに参っちまうだろうに…」
その前にアニキの方が参っちまいやすよ…という言葉を聞き流して、どうっすっかなぁと天を仰いでは、溜め息まじりに額に手を当てる。
『敵に情けをかけられてまで、生き永らえようなどとは思わぬ』
情けをかけられるぐらいなら、いっそ死んだ方がマシだ、と。
つまりは、そういうことなのだ。
(…ちっ……潔よすぎて、反吐が出るぜ…)
どうにもこうにも八方塞がりで、あんなひどい状態のまま安芸に送り帰すしかないのかと、
それですら素直に従ってくれるかどうかも怪しい。半ば諦めかけたその時だった。
「アニキっ!大変ですぜ!!」
火急の知らせだと、斥候で放っていた者の一人が息も切れ切れに慌てて駆け込んできた。
「あん?…一体、どうしたってんだ」
こっちもこっちで今が正念場なんだとばかりに睨み返す。
「九州が…っ!!」
思考が鈍りながらも、いよいよ以って身体が衰弱してきたように思う。
もう腕を上げることさえだるくなった。
あれから動かず寝たきりの身体はひどく節々が痛んで、今日も懲りずに夕餉を運んでくる長曾我部に顔を向けることすら辛いほどに。
攻防すること早四日目。
そんな状態のやりとりが幾度となく続いて、先に音を上げたのは元親の方だった。
「…食えよ」
「いらぬ」
表情ひとつ動かさずに、機械仕掛けのごとく呟かれる言葉に、もはや苛立ちを隠す事など出来るはずもなかった。
「食えよ…っ!アンタほんとに死んじまうだろうが…っ!!」
前にもまして薄くなった肩を強引に引っ掴んで、馬乗りに布団の上に押さえ付ける。
「っ?!離…っ――」
暴れる顔の輪郭を左の手で固定して、無理やりこじ開けた口元に白粥を流し込んだ。
「うっ…ぐ…」
圧倒的な力で押さえ付けられたまま、嫌々ながらに嚥下して咽喉を滑り落ちていく感触に辛そうに眉根が寄せられた。
元就が一口飲み込んだことを確認して掴んでいた手の力を緩める。
ごほごほと涙混じりに咳き込んでいる弱弱しいその姿を横目に見ながら、先程もたらされた情報をまるで独り言のように呟いた。
「…織田の軍勢が、九州薩摩を制圧しやがった。……それがどういうことか、聡いアンタになら……」
分かんだろ?…アンタのいねぇ安芸がどうなるか。
今までどんな話題にもまったく興味を示さなかった元就が、初めて自分の方を見た。
「…っ!…それは、まこと、か…」
ハァハァと辛そうに息を継ぐ合間から、搾りだすような掠れた声音が問いかけてくる。
意図せず聞かされた情報に青ざめて、驚きに見開かれた双眸がジッと見上げてきた。
その眼光の煌めきはこんな状態になってしても少しも翳りはしていない。
根っからの武将だなぁアンタ…と苦笑せざるを得なかった。
「今しがた、入ってきた情報だ。間違いねぇよ」
「…っ……九州、薩摩の島津が、……敗れたと……」
九州側と織田、加えて目の前の四国にまで挟撃されれば、己のいない安芸がどうなるか。
毛利元就が不在だと公にはなっていなかろうが、忍びの手の者によってその情報が各陣営に伝わっていてもおかしくはない。
安芸に己がいない今が好機なのは、一目瞭然だ。
第六天魔王と呼ばれるあの男に、多くの地が屠られ、焼き尽くされ、戦禍に巻き込まれて多数の領民が命を落とすことなど目に見えている。
あの、美しい大地が踏み躙られるなど。
「―――っ!」
「織田は、歯向かう奴には容赦がねぇ…一族郎党、女子供ですら皆殺しだ」
ギリッと夜着を握りしめる手が戦慄く。無意識にきつく噛みしめた唇が切れて、口中には鉄の味が広がった。
「……」
俯いた表情までは見えなかった。けれど、きつく握りしめた指先が痛々しくて、小刻みに震えている小さな肩を擦ってやりたかった。
だがきっとそれは、毛利にとって許されることではないだろうから。
「食えよ、な」
そう言い残して静かに室を後にする。
何でもいい、何でもいいんだ。生きる糧にさえなってくれれば。
例えそれが、あいつにとってひどく辛い現実だったとしても。
自嘲気味に口元を歪めながら、ぼりぼりと癖のある銀髪を掻いてゆっくりと歩き出す。
おそらく、一番知られたくない相手に弱みを握られた上で、生き永らえざるを得ない状況に追い込まれての、
あいつにとっては、死んじまってもいいと思える程、耐え難い屈辱なんだろうな…。
それでも、自分勝手に死んでいくのだけは、どうにも許せなかったのだ。
はぁっと溜め息をついて、ぴたりとその場に立ち止まる。
「俺も大概、ひでぇよなぁ…」
そう、一人ごちて。