向日葵5
結局、長曾我部に促されるまま生き恥を晒して、放っておけば尽きる命であったのに、今もこうして無様に生き永らえている。
早う、安芸へ戻らねばならぬ為ぞ。と、己に言い聞かせて。
堂々巡りで行き場のない考えに沈む意識の隅で、もう薄々は気付いていたことだ。
長曾我部が言う言葉の通り、まこと己に危害を加える気など到底考えていないことなど。
だが逆に易々とは受け容れ難いことでもあった。
何故ならばそれは、今日まで毛利元就として生きてきた己自身の生き様を真っ向から否定されていることに他ならないのだから。
「………」
一口二口と口に含みながら、ゆっくりと咀嚼する。
己に気を使ってか一人残された室で、ただ黙々と手渡されたそれを口に運ぶ。
ふぅと呼吸をつくと、しんと静まりかえる静寂が返る。
一人で食事を摂ることなどいつものことで、とうに慣れているはずなのに何故かひどく心が揺らいだ。
(否、そのような事…)
朝昼晩と甲斐甲斐しく、毎度毎度口うるさいくらいに己に構う存在が急に姿を見せなくなったからであろうか。
感じていた人の気配が消えるということが、こんなにも心細くなるものだとは知りもしなかった。
(あってはならぬ……我、は…っ)
かちゃりと匙を横にあった盆に置いた。じくじくと我が身を苛む傷痕にさらしの上から手を当てながら、膝を立てて小さく蹲る。
取り留めのない考えに己がひどく些々たるものに思えてきて、背を這い上がる寒気に肩がぶるりと震えた。
今さら何を恐れることがあろうか。
誰に理解されずとも構わぬ、どの様な非難を浴びようとも構わぬ。斯様な傷も、どうとでもなろう…。
我が命果てるまでただ、何よりも愛おしい安芸の為、だけに。
耐えよ。
己に言い聞かせるように瞼を伏せて、殊更ゆっくりと呟いた。
(我は…、中国の覇者なるぞ…)
ドスドスと廊下を歩いてくるもはや聞き馴染んだ足音に、眉間に皺を寄せて顔を顰める。
足音が自らの室の前でピタリと止まると、やはり想像に違いない姿を現した。
「いよう毛利、具合はどうだ?」
そう言って己のすぐ側にあるのが当然とでも言わんばかりに、間近に腰を下ろす。
その一連の動作に顔を顰めたままに冷たい視線を投げつけた。
「……」
「そう睨むなって…」
ははっと苦笑しながらも、ひたりと、己の額に長曾我部の節ばんだ右手が当てられ、煩わしさにすぐさま払いのける。
「…っ」
「んー…熱は下がったみてぇだなぁ。…でもそのまんまじゃ気持ち悪ぃだろ。湯、沸かしてきてやったから身体拭いてやるよ」
あと、着替えも持ってきたから、と手に持っていた真新しい夜着を元就の方へと渡す。本当は傷の具合も見てぇんだけどなぁという言葉に一層深く眉間の皺が刻まれるのを目にする。
分かってはいる。さすがに元就に意識のある状態で、裸になれとはどうにも言い出しにくかった。
「正面はてめぇで出来んだろ…背中拭いてやっから向こう向け」
手元に持ってきた木桶の中できつく手拭いを絞って、ほら、と言わんばかりに促す。
静かな光を湛えてジッと見上げてくる双眸に、軽くそう言ってからはたと気が付いた。此処はいくさ場ではないけれど、敵である相手の前に背を晒すという行為が武将としてどういう事か、と。
(無理…か…?)
他意はないが、自分の言葉におとなしく従うだなどとは到底思えなかったから、考え込むように逸らされた瞳が伏せられ、渋々ながらにも背を向けるその姿に思わず声が出てしまった。
「…珍しいな、アンタが俺の言うこと聞くなんて」
「……致し方あるまい。…背に腹は代えられぬ」
そう言って潔くぱさりと、肩から袖をはずして、眼前に元就の白い背が無防備に晒される。
「……」
おなご扱いするなと、何度罵られても、やはり目の前にあるのは紛れもない女の身体だった。
肩から描くなだらかな曲線。細すぎる白い首は今すぐにでも手折れそうで、首元にかかる柔らかな栗色の髪が艶めいて、揺れる。その身が疎ましいと雁字搦めに抑え込まれても隠しきれていない色香に、知らずごくりと唾を飲みこんだ。
むしろそれを隠そうとするからこそ、尚の事際立つのかもしれない。
中国すべてを背負うには、あまりにも小さすぎるその背中にまるで時が止まったかのように、目が離せなかった。
「……?何をしておる。早う、いたせ……長曾我部?」
「あ、…ああ、悪ぃ悪ぃ」
一向に動く気配のない自分に不審がって横目だけで振り返る元就の言葉が訝しげに掛けられた。
まさか見惚れていたなどと言えるわけもなく、慌てて肩から腕、それから背中と、手に在る手拭いでゆっくりと拭いてやる。
こんな風に間近でまじまじと見つめた事はなかったが、絹のようなしっとりとした肌理細やかな肌なのに、其処ら彼処にいくつもの痛々しい傷痕がある。
(これは…矢傷か…)
これまでに元就が、毛利家の当主として幾度も幾度もいくさ場に身を置いて生きてきた証だった。引き攣れたようなその傷痕を辿るように指先でなぞり、思わず顔を寄せて優しく口づける。
「…っ!貴様、…っ」
突然もたらされた思いがけぬ感触に驚いたのか、元就の非難の声が若干上擦って聞こえた。
「ああ、こんなとこにも傷があらぁって思ったら、つい…」
咎められているにも関わらず、その傷痕を舌先でちろちろと嘗め上げると、ビクリと反応を返すように白い背が撓る。
「!っ…色、が欲しいのであれば、馴染みの側女でも呼ぶが良いわっ」
「だってよう、折角目の前にアンタがいるんだし…」
「貴様一度ならず二度までも我を愚弄するか…っ!!」
「あ?」
背を向けたまま俯いて、腹の底から絞り出すような怒声が辺りに響いた。わなわなと小刻みに肩は震え、血管が浮き出るほどきつく握りしめられた指先が目に入る。
「……我、を…我をそのような、伽をするだけの卑しい女と同じにするでないわっ!!そもそも貴様は、我のような貧相な身体は好かぬと申したではないかっ!!」
「そこまで言ってねぇだろうが!!!」
「……っ何故、貴様が怒るのだ」
思いもよらぬ反論に若干毒毛を抜かれる。怒りに肩を震わせて怒鳴り散らしたいのは此方の方だというのに、鬼のような剣幕で畳み返された言葉に、少なからず戸惑いを隠せなかった。
「…じゃあよ…アンタのこと……毛利の姫さんだって、大事大事にすりゃあ、…いつかは…」
『そうしたらいつかは、俺のもんになるってのか?』
(っ……俺ぁ、今、何を…)
自分が何を言おうとしたのか妙に冴えた頭の隅でぐっと飲み込んで、元就の荒げた声もお構いなしに背後からきつくその背中を掻き抱く。眼前に見える細い首筋に堪らず齧り付いた。
「!!なに、…を、申して……」
やんわりと食まれて、首筋にかかる吐息のむず痒さに身を捩る。てっきりまたからかわれているのだと間近にきつく睨み返した視線の先の、己に向けられる熱の籠った眼差しに息が止まるかと思った。此処に来てからというものまるで見たこともない表情に背筋が一瞬で凍りつく。
西海の、鬼。
そう、呼ばれるに相応しい、熱と、冷酷さを併せ持ったような表情だった。
「……長曾我…部…?」
背後から元親の左手が輪郭を辿るように元就の顔に触れ、そのままゆっくりと指先が元就の唇を確かめるようになぞっていく。
「…っ」
「アンタ、男と睦みあったことあるか?」
男ながらの節ばった太い指で顔を固定され、逸らし様もなく互いの視線が絡み合ったまま耳元でそう囁かれた。たとえ無かったとしてもあるか無いかなどと、答えてやる義務は己にはない。それに元より女であるなどとうに捨てているこの身であれば尚の事。
「!!そっ…そのような…穢らわしいっ」
「……可愛いな、…毛利…」
ふわりと身体が浮き上がる感覚がしたと思ったのも束の間、次の瞬間には長曾我部の腕の中、褥の上に仰向けに横たえられていた。
先程からの思いもよらぬ行動に、思考が上手く働かなくなりそうで、冷たい汗がツッと一筋頬を伝った。
「正気か、貴様っ…!」
「毛利…」
首筋をチュっと軽く音をたてて吸われる。いまだ上半身は肌蹴たままだ。人の目に晒すにはあまりにも貧相な己の身体に、長曾我部の目にもそれが映っているのかと思うと、耐え難い屈辱を感じてか目尻にうっすらと涙が浮かぶ。そこへ遠慮なく覆いかぶさってくる重みに、身を捩り、じたばたともがいてみても微動だにしなかった。ぐっと両腕に抱きこまれる。
「離…せ…っ」
「毛利…毛利……」
じんわりと触れられていく箇所から段々と熱を帯びていくようだ。素肌に直に触れてくる掌の温度に、心の臓から響く鼓動がどくどくと驚くほど早くなっていくのが分かる。羞恥に眩暈がして、熱に浮かされて、そのまま硬直したように身動きが取れなくなりそうだった。
「やめ…っならぬ!!長曾我部っ…!!」
意図せず上がる呼吸に息も絶え絶えにただ制止の声を上げることくらいしか出来ず、どうにも己の無力さ加減が歯痒かった。けれどその声とは反比例して徐々に肌が朱色に上気していく。
「嫌ぞ…!!!」
咽喉の奥から搾り出すような、涙に掠れた叫びがどうにか鬼の耳に届いたのか、ゆるゆると首筋を辿っていた唇がぴたりと動きを止めた。
「あー……」
居所が悪そうに視線を逸らしながら、のっそりと上体を起こす。腕の下で小刻みに震える小さな白い背中。耐えるようにきつく寄せられた眉根に、涙を湛えた瞳が目に入って、怖がらせてしまったのだと、ただ罪悪感しか湧いてこなかった。
こんな風に一方的に蹂躙したいわけではなかったから。
「…ちぃと悪ふざけが過ぎた、な…悪ぃ悪ぃ、アンタがあんまりにも面白い反応するもんだからよ…」
「このっ…痴れ者めがっ…!!」
やはり、またしてもからかわれていたのだと告げる声に、さも申し訳なさそうに項垂れた姿に、余計に腹が立って仕方がない。
一切の手加減をせず力の限りに元親の左頬を思いっきり張り倒した。
頬を張るのはこれで二度目になる。
けれどあの時とは比べ物にならぬ程に己の胸が痛むのは何故だろうか。じんわりと滲む涙に視界がぼんやりと歪んでいく。
「痛…ぇ」
まぁ自業自得かと、思いっきり張られた左頬を擦りながら、褥の上で小さく蹲る姿に視線を落とす。
まるで顔も見たくないとばかりにその身を隠す様に自分に背を向けて、掠れたような低い声音が聞こえてきた。
「…っ……失せよ…」
「悪かった…毛利…」
毎度毎度、謝ることしか出来なくて、何とも情けねぇなぁと思いつつも宥めようと、おとなしく室を後にする。
「……っ」
背後にぱたりと締められる襖の音に、遠ざかっていく足音を聞きながらふっと身体の力を抜く。はぁと誰知らず零れ落ちた吐息は熱を孕み、情欲に潤んだ瞳が涙に濡れて頼りなげに揺らめいていた。
感情と理性の狭間で何もかもを抑え込むようにギリッと唇を噛みしめながら己の身体を掻き抱く。
(一体、何なのだ…あやつは…)
上がる息を整えながら、無様に肌蹴た合わせを勢いよく脱ぎ捨てて、替えの夜着と渡されたそれに袖を通して居住まいを正す。
衣服の乱れは直ぐに治っても、一度乱された心の内はそう簡単には治まりそうになかった。
(我が、心乱すなど…)
背後から己を抱く両の腕の逞しさ、どんなに渇望しても手にすることは叶わぬ男子としての圧倒的な力の前に、くだらない戯れなのだと分かっていながらも、己を抱き込む掌の熱さにその身を朱に染めた。
(無様な……)
女としての器量などなく、生きる途もとうに捨てた己にとって、そう易々と許容出来る行為ではない。
けれど睦言のように毛利毛利と繰り返し己を呼ぶ声が耳にこびり付いて離れそうにもなかった。
己を乞うているのかと、くだらない錯覚に陥りそうになる。
「ぐっ…ぅ、…くっ………ふふっ…大した策士よ…長曾我部」
鬼の手の内で、己が女であるということを今更に思い知らされて、全身から込み上げてくる吐き気に口元を抑える。
煩わしさばかりが渦巻く胸の内で、所詮戯れぞと言い聞かせる度、ひどく其処彼処がずきりと軋んだ。
この程度の事で痛みを感じるなど、あってはならぬことなのに。
(…なら…ぬ……斯様な考え、有り得ぬ…有り得ぬわ…っ)
「あぶ…ねぇ…」
やばかった。ほんとに、やばかった。
あと一歩、毛利の制止の声がなかったら…
(完全に、食っちまってただろうなぁ…)
枯山水を模した美しい庭園が広がる縁側にぼーっと腰掛けて、そう、思いながら途方に暮れる。沈んでいく気持ちとは裏腹に下半身だけは妙に元気なままで、それにもまたはーっと深く溜め息をつくしかなかった。
(一体どうしちまったんだ、俺ぁ…)
兎にも角にも女にしては痩せすぎだし、発育悪くて出るとこ出てねぇし、口は悪ぃし、目付きも悪ぃし、おまけに性格も歪みきってるときたもんだ。三拍子以上に揃いすぎてて絶対そんな妙な気になるなんて思ってもみなかったのに。
「……」
目の前に晒された白い肌を見た瞬間、あっという間に理性が吹っ飛んでた。
(ああ、もう…)
きつい口調に罵詈雑言の数々。まったく可愛げのない悪態の中、不意に俯いて逸らされる視線がどこか哀愁を滲ませる。
その瞳は常に安芸にだけ向けられて…。
孤高――
そんな言葉が脳裏をよぎった。
痛みを我慢して無理やりに肩張って、ぶっ倒れるまでどこまでも意地を通して。誰に頼ることもなく全部己で抱え込んでその身を削りながら足掻いている。
(…ほっとけるわけ…ねぇだろうが…)
恋慕の情が何か、などと分かるわけもないが、きっとこういうのは理屈ではないんだろうと思う。一度でも気になってしまったものは、もうどうにも誤魔化しようがなかった。