向日葵6




「失礼いたします。お食事の膳を下げに参りました」

室の外からそう声がかけられ、静かに襖が開いていく。
目線だけを投げると、声の主と侍女が数人畳に指をつき、深々と頭を垂れている姿が目に入った。
侍女を従えて齢は五十を過ぎたあたり、女性特有の物腰の柔らかさと厳しさの両方を兼ね備えた、年季のいった侍女長とでも呼べる雰囲気を持っている。

「……」

無言を肯定と受けとったのか、しずしずと歩み寄り傍らに置かれている膳を持ち、控えの侍女に下げさせる。
その無駄のない流れるような所作に、相当に長くこの城に仕えているのだろうと思った。
おぼろげながら、女手ひとつで己を支えてくれた養母の姿を重ね見てしまう。
彼女の助けがなかったら、おそらく己はとうにこの世にいなかったろう。

「…あまりお口に合いませんでしたか。毛利様は食が細くいらっしゃいますね…?」

半分以上は箸をつけないままのそれを見てなのか、不意に話しかけられて一瞬戸惑ってしまった。

「いや、そういうわけでは…」
「元親様なんてこの倍はお召し上がりになられますよ」
「………」

あれだけでかく育ったのだから当然かもしれないとは思うが、それと比べられても困る。
自分はさほど食に拘りがなかった。口に入れば何でもいいと思うし、政務が多忙のあまり食事を摂らぬことも多々あることだ。
政優先で、己の事は二の次でいい。
養母も亡くなった今それを見て嘆く者など安芸におるはずもない。

「…出過ぎた事を申し上げました。お気を悪くなされましたら平にご容赦を」

少し考えこむように間があいてしまったせいか、気まずそうな声が返ってきた。

「いや、構わぬ…。そういえば、その……あ奴の姿が見えぬが…」
「元親様は若い衆と共に作業場に籠りっきりでいらっしゃいます」

またきっと、無駄ながらくたでもせっせとお造りになっているんでしょうと、どこか安心する柔らかい笑顔を湛えた表情が幾分困ったように向けられた。

「漢の浪漫か何かは存じませんが、国が傾くだけに思えて仕方のうございます」

どうやら長曾我部の作るカラクリの類は侍女達にはあまり評判が宜しくないらしい。
戦闘力に於いては認める部分も確かにあるが、如何せん費用が莫大にかかりすぎるのは難という他にない。

「…そうか」

深々と一礼の後、また何か御用がございましたらお声掛けを、と言い残して再び襖が閉められた。
ゆっくりと閉じられていくそれを見つめながら小さく溜め息を零す。
あの様ながさつな男でも己の愚行を恥じることがあるのか、あれきり長曾我部が自らの前に姿を現す事はなかった。
こちらとしても顔を合わせたら、あの時の怒りが沸々と込み上げてくるやもしれない。煩わしい感情にいちいち振り回されるのも面倒で、何事も無きように済ませてしまえるのならもう、それで良かった。
ただの戯れに心を留め置くなどあっていいはずもない。

(詮なき事…)

けれど海に落ちたあの日から数えて幾日か。これ程に長く安芸を離れている訳にもいかなかった。
見張りがいないというのであれば、夜の闇に紛れて城を抜け出す事も可能であるかもしれない。

「………」

塞がりかけた腹の傷に手を当てて起き上がる。普通に歩ける程度にはどうにか体力も回復していた。

(これ以上の長居は無用ぞ…)

窓際の障子を開けて日輪の姿を目に拝む。一点の曇りもなく澄み渡った空はどこまでも青く、空と海が交わる境界線まで遥かに続いていた。
天空から降りそそぐ光にうっとりと瞳を閉じようとして、視界の端に捉えた姿に鼓動が跳ね上がる。

「…っ…」

庭先で何をしているのか、若い男衆数人で円を描く様に長曾我部の周りを取り囲んでいた。
何か足元に置かれた機械を操作しているように見える。よし、これで大丈夫なはずだと、長曾我部がぽちりとボタンを押した途端、ボンッという爆発音と共に辺りに黒煙と火薬の匂いが立ちこめた。
わー!だのぎゃー!だのむさくるしい悲鳴があちらこちらから聞こえる。
大方、先程侍女長から聞かされた新しいカラクリの試作でもしていたのだろう。
煙ですすけて真っ黒になった長曾我部の顔が目に入って、そのあまりの可笑しさに知らず笑い声が零れた。

「……阿呆か…ふふっ…」

アニキー、それ失敗作ですぜーとゲラゲラと響く笑い声と上がる声に、同じように大声で笑い飛ばしながら、あれ、っかしーなぁと頭を捻る。こんなはずじゃあなかったのによと、傾げる仕草でふと顔を上げた長曾我部と一瞬ではあるが視線が重なり合った。

「!!」

別に見ていたこちらが悪いわけでもないのに、何故だか慌てて背を向けてすぱんと障子を閉める。
思いがけぬ逢瀬にどくんどくんと早鐘を打つ鼓動は、まさか気付かれるとは思っていなかったから、だから驚いた所為だとそう言い聞かせて、上手く力の入らない身体がずるずるとその場にへたり込んだ。
そのまま俯きがちに額を押し付けて、ぎゅうと膝を抱える。

(…早う…安芸へ戻らねば…)

長曾我部は事ある毎によう笑う。
癖のある銀髪と相俟ってか笑うと幾分幼く見えて、いくさ場では目にしたこともない、子供の様にくしゃりと顔を歪めてそれは嬉しそうに。まるで日輪に照らされてでもいるような明るさが常にそこにはあった。
笑い声に惹かれてか自然と周りには人の環が出来て、あれはいつもその中心にいる。さも楽しげに活き活きとしていて。皆に頼られて、慕われて、きっと寂しさなどとは無縁であるのだろう。
その癖に何かに付けて寂しくはないのか、などと平然な顔で問うてくるのだ。
今の己には口に出すことも憚られる。それはとうに捨て去った感情に過ぎない。

(まこと虫の好かぬ男よ…)

心の欠けた氷の人形だと。
対峙すればするほどどこまでいっても平行線で交わる先など見えぬ、全くもって相容れない。己には理解出来よう筈もなかった。

(嘲りと憐みなどいらぬ…っ)

ただ陽のようなその姿が眩しくて
目が離せなくて

いつか焦がれて燃え尽きてしまうのではないかと思うほどに。



「……つっ…」

こめかみ辺りにズキリと響く鈍い痛み。宥めるように頭を押さえる。
こんなにも長く政と戦から離れていたのは随分と久しく、きっと勘が鈍ってきているのだ。
下らぬ感傷に思った以上に動揺している心中に、ぎりっと唇を噛みしめる。
この地に住まう者たちは皆一様に優しすぎて、父や母や兄や、幼き頃の忘れ去った記憶を思い起こしてしまう。
捨ててきたはずの弱さばかりが募っていく苛立ちを振り切る様にかぶりを振った。このままここに居ては、己の自我が保てなくなりそうで、それが堪らなく恐ろしく感じて仕方がなかった。
その様な考えに至ること自体が既に以前であれば考えられぬ事なのだと認識していながらも。
ずきんずきんと抜けない棘が今もずっと刺さったままで。








『…元就様』

空中には月が満ちて夜の帳も降りた皆も寝静まる夜半すぎ、天井上から聞こえてきた小さな音に耳をそばだてる。
周囲の様子を窺うも辺りに人の気配は感じられなかった。

「…お前か」

天井から聞こえてくる声と馴染みの気配に、配下の手の者だと認識する。

「元就様、どうか早急にお戻りを」
「…どうなっておる」
「隆元様を筆頭に、元春様、隆景様の毛利両川が健在、御三方で執りしきっておられます。後見には清水殿が。四国への出陣の準備も整っておりますれば何時なりと御迎えに」
「…そうか…」

あの子らが…と、瞳を細めてその姿を思い浮かべる。
ゆくゆくは自らの後を継ぐようにと手元に置いて厳しく育ててきた。常日頃より口煩く説いている分、今の己を見たら、それこそ“何という醜態を”と罵られるであろうなと、くくっと口元を歪める。
いずれも毛利の血筋である。早くに吉川、小早川両家に血を分けた甲斐もあったというもの。
加えて清水が補佐に付いているというのであればもはや何の憂いもない。
己が女だと承知の上でそれでも我に仕えると申した肝の据わった武将なれば。

(…我などもう捨ておけば良いものを…)

迎えに、来るのだという。四国に付け入られる隙をわざわざ此方から与えてまでも。
味方をも欺く偽りの器なれど、未だ利用価値が残されているということなのだろうか。

「東方はどうなっておる」
「奥州伊達、甲斐の武田、それから越後の上杉に若干の動きが見られますが、単独で動いている者もおるようで掴みきれておりません。九州も沈黙しております」
「………」

今現状で戦況を把握するにはあまりにも情報が少なすぎる。なりを潜めた織田の動向も気にかかるところではあった。
まるでいくさ場に立つかの様な、ピリピリと神経が研ぎ澄まされて行く感覚に小さく息を吐く。慣れ親しんだ闘気が徐々に舞い戻ってくるのを身の内に感じた。

「皆、元就様の御身を案じてご心配なされておられます。が、中には元就様ご不在に不満を零す者もおるようで…」

安芸は国人領主であった毛利が、吉川、小早川と共に中国統一を名目に大大名として纏め上げたものだ。虎視眈眈とその座を狙う者は存外多く、詰まらぬ事が引き鉄でいつ内乱が起こってもおかしくはない。そんな火種を身の内に常に抱えている。
だからこそ毛利家当主にはより一層の、いっそ冷徹なまでの厳しさが求められてきた。
多少の犠牲は止むを得ず。大を生かし、小を切り捨てる。策を成すには情けは無用。
ゆえに父も兄も心を病んで、酒毒に侵されて早くに身罷ったのだろうと思う。
”安芸を頼む”と、遺い残して。
最期まで繋いだ手は温かく、どこまでも優しすぎる人達だった。

「……」
「それから、四国の内情ですが…」

詳細に綴られる言葉を耳に入れながら、要らぬ考えを断ち切る様に、スッと目を細めた。
あの頃を思い返すにはもう、何もかもが手遅れすぎる。
島内全土が神域である厳島さえ血染めにした、自らの足元には、それこそ数え切れない躯の山が積み重なっているのだから。

「隆元に…国境いの守護の強化に努めよ、と…それから……明後日早朝、守護を残した毛利水軍全軍を四国へ、……我の指示があるまで攻撃はいたすな…と申し伝えよ」
「御意に。…お側に控えております故、他にもご命令があらば何なりと」
「…必要ない、散れ」
「では、これにて」

言葉が終ると同時にスッと消える気配に仰向けに天井を見上げてゆっくりと瞳を閉じる。
これで、良い。
これで良いのだ、これで。
これできっと明後日には全ての決着がつこう。
ようやく煩わしい感情からも解放されるのだと喜んでいいはずなのに、一向に晴れそうにもない心中に眉間にきつく皺を寄せて顔を顰める。
ガバリと頭の上まで引き上げた上掛けに包まって、ぎゅっと固く目を瞑り両の耳を手の平で塞ぐ。
膝を折り畳んで小さく丸くなって眠る癖はいつになっても抜けることがなかった。そうしていないと、湧き上がる不安に今にも押し潰されてしまいそうに己がひどく矮小なものに思えて仕方がなくて。

息が、詰まる。

霞みがかっていく思考に、どくんどくんと心臓の音が響くたびこめかみに鈍痛が走る。
これまでに何度もある慣れた痛みに、指の関節でぎゅうと押すと幾らか痛みが和らいだ。

「…っ」

嗚呼…、
頭が、痛い。
身を縛るように響く痛みはただの頭痛なのか、それとも。





「頼みが、ある」

朝餉の膳を下げに来た侍女を捕まえて手短に伝える。
長曾我部を此処に呼んではくれまいか、と。
胸の内のけじめをつける為にも、今一度、逢うことを選んだ。
それで何が如何なるわけでもないが、納得のいく考えに至らぬ場合は、元凶を断つことも視野にいれながら懐に忍ばせた懐剣をきつく握り締める。昨夜の折にお手元にと、手渡されたものだ。
この様な小刀でも寸分違わず急所を突けば人一人の命くらいなら奪うのは容易い。

「………」

黒漆塗りの柄と鞘に鮮やかな金箔で施された一文字参星紋に、祈るように頭を垂れ、瞼を伏せる。
身の内の秘密を知られている以上、何かしらの策を講じておかなければならぬことは明白だというのに。

ただ待つということはそれだけでひどく重く圧し掛かった。
持て余す時間に良からぬ考えばかりが脳裏をよぎって、窓のへりに凭れかかってぼうっと眼下の瀬戸海を眺める。
深い深い海の青が長曾我部の瞳の色を連想させて苦々しく顔を歪めた。
食欲などあるわけもなく、結局出された昼餉にもまったく手をつけないで、膳を下げに来た侍女長にあらぬ心配まで掛ける羽目になってしまった。如何にかして食べようにも咽喉を通らぬのだから仕様がない。

パタパタと足音が耳に響いてくる度、ビクリと身を竦ませてはその音の行方を追う。咄嗟に懐刀をぎゅっと握り締めた手が微かに震えた。
やがて自らの室の前を通り過ぎていく足音に、ああ、これは違う。と、何故かほっと小さく嘆息する。
足音が響く度、何度も、何度も。

待ち続けて、待ち疲れて、
そのうち、己は一体何をしているのかと、あまりの滑稽さに乾いた哂いしか出てこなくなった。
なんと惨めなのであろうか。

こちらの方から時刻を指定した訳ではなかった。
ゆっくりと陽が西に傾いて赤々とした残光が差し込む。



「…来ぬの、か…」

陽に透けた飴色の瞳が切なげに揺らめく。
成す術もなく、

明日の朝にはもう、迎えの船が来るというのに。