向日葵7




「アニキは毛利の野郎をどうするつもりなんですかい」

そう問われた言葉に、正確には野郎じゃねぇけどな、などと呑気に構えながら慣れない思案に溜め息を漏らす。
居城であるここ岡豊城へ元就を連れて帰ってから、出来るだけ人の目に触れぬ様努めてきたつもりだ。
元就の性別を分かっているのは此処ではおそらく自分だけだろう。
涼しい顔で軽々と輪刀を操り、いとも簡単に敵兵を薙ぎ払うその姿を戦場で目の当たりにした武将であれば、アレが女であるとは思えない、きっと思いたくもない筈だ。
元就の性別が周囲に知れれば、自軍全体の士気に関わる気さえした。

(あたま痛ぇ…)

だが一時とはいえ自制を失いかけたあの日から、仕方なく侍女達に世話を任せている。いつか知れる時が来るのではないかと冷や冷やする思いで。
元就の単衣を纏った時の身の細さには目を見張るものがある。加えて薄っすらではあるが、女性特有の柔らかく丸みを帯びた身体の線はどうにも隠しようがなかった。

後から後から尽きぬ悩みに、また一つはぁ、と深く溜め息をつく。

「親父殿は毛利殿のことをどうなさるお考えか」

挙げ句、嫡男である信親にまで至極冷静な顔と声で問われたことを思い出して、苦々しく表情を曇らせた。
ついこの間まで血臭が漂う戦場で互いに刃を交えていた相手だ。
同胞の中には奴の手によって命を落とした者も少なくない。元就のことを良く思わないとしてもそれは当然と言えば当然のことだった。

(…そりゃ俺だってなぁ…何も考えてないわけじゃねぇけどよ…)

己とて以前のままであれば、その首を刎ねることに何の躊躇いもなかったかもしれない。
互いに敵と認めた者同士、戦場に果てる覚悟などとうに出来ているのだから。

(…………)

下手に関わりすぎて、情が移ったのか。どうにも放っておけなくなってしまった。

あんな弱さが、あんな風に泣き崩れる一面があるなんて、目にするまではとても信じられなかった。
理路整然と積み上げられたお得意の隙のない策に、氷のような凍てついた表情の、
でももしその下で、ただひとり圧し掛かる重圧に声も出せずに苦しんでいるのなら。

(ああ、…っくそ…柄にもねぇ……相手はあの、“謀神”とまで畏怖された中国地方最強の武将だってのに…)

およそ自分らしくもない、過る考えを振り切る様に思いきりかぶりを振る。あれが策でないと言いきれる保証はどこにもないのだ。
迂闊に近寄れば、あの研ぎ澄まされた刃で、手痛い報復を受けることにも成りかねない。

(どうすりゃいいってんだよ…)

寧ろ、どうしたいのだろうか、己は。

元就が言うのと同様に見せしめに首を晒して安芸を獲るが良策とまで進言する者もいる。
己の命を惜しまず「おそれながら…」と、主君に進言するその姿勢を無碍に出来るわけもなく。
いつまでも囲っておくわけにもいかず、かといって今更投げ出すわけにもいかない。
一国の主としてどう在るべきか、元就の言葉が正論なのにも理解は出来るのだ。
頭、では。

まるで使い捨てと言わんばかりに人の命を切り捨てる様子は許せる筈もない。
氷のような眼差しで迷うことなく“大義のための犠牲は付き物ぞ”と呟かれた言葉も納得していい物では決してない。
けれど。
元就の身を預かっていると安芸へ送った書状。すぐさま届いた返状に目を瞠った。
敵方である自分に恥と承知の上で、何の躊躇もなく頭を下げる、と“情けを頂戴したい、主の身の保証を約束いただけるのならば自らの首を差し出すことも厭わない”と。

(名将…清水宗治…か、…心ある重臣が、すぐ側にいるってのにな…)

兵を駒だと冷たく言い捨てるのは、それを知ってか、知らずなのか。
何とも報われぬ臣下の想いに歯噛みしながら、力任せにぶんっと手にしていた刀を振り下ろす。
その波動に乾いた音をたてて空気が裂けた。
ぎりっと握り締めた柄に力が篭もる。
内なる迷いを断ち切る様に一振り二振りと空を切る度、呼応して辛そうに精悍な面が徐に歪んでいく。

「くそっ…」

書状の主と同じように、いやむしろ己の方がよほど性質が悪いのかもしれない。

敵だと頭では認識している。
常に正面に対峙していた憎むべき相手の、

晒された小さな背を、”守ってやりたい”だなどと、思ってしまったのだから。







辺りはもうすでに陽が落ちはじめ、宵闇の刻現に差しかかろうとしていた。

常よりも遠慮がちに廊下を歩いてくる足音がうっすらと耳に聞こえて、息を詰める。
あまりの間の空き様に溜め息をつく気力すらすでに無く、もしや伝わらなかったのではないかとさえ思い始めていた。
ああ漸くかと、窓縁に伏せていた面を上げる。
目に飛び込んできた瀬戸海が茜色に夕焼けを反射してキラキラと輝いていた。
ふいに厳島の大鳥居にかかる幻想的な夕陽を思い出す。
空が真っ赤に燃えあがる程に見事で、考える事を放棄していた脳裏に、ざわりと、深紅に埋め尽くされた厳島の惨状が鮮明に甦る。

「…っ!」

朱色の回廊が血飛沫に濡れて赤黒く光り、やがてぴくりとも動かなくなった肉の塊が其処彼処に無残な姿を晒していた。
思わず目を覆いたくなる凄惨な有様に、辺りには死臭が漂い、敵か味方か、どちらの兵とも分からぬ微かな呻き声が耳を突く。
生理的に咽喉元を這い上がってくる吐き気をどうにかして押し留めながら、敵将を追い詰め、戦場を駆ける。

かの神域を。

血で穢すは最大の禁忌とまで言われ、なのにも関わらず、何千もの兵のおびただしい血臭で赤々と染め上げられた“神の島” 
紛うことなく、その采配を振るったのは自分だった。

「嗚呼…、そうか、…そうであったわ…」

足元に幾重にも折り重なった屍の上に、今も尚、己は立っている。
敵を欺き、味方を欺き、己すらも欺いて、全てを偽り今日まで生を繋いできたのは、何の、為か
成すべきことは何だったか

答えなどとうに決まっていた。この道を生きると選んだ時からすでに。
前を、向かなければ。
先へ、進まなければ。

――安芸を、守らなくては。

全てを捨てると決めたのだ。遠いあの日、に。ただその為だけにと誓って。


(我に理解出来ぬものなど、要らぬ……)









「放されたかと思うたわ」

襖の向こうからのっそりと姿を現した元親にそう厭味を込めて声をかける。項垂れた様子にちらりと横目で見やれば普段とは違う深い藍色の袴に身を包んでいた。

「…ああ、悪ぃ…ちぃとばかし稽古が長引いてなぁ…政務もあったもんだからすまねぇ……珍しいな、アンタの方から俺を呼ぶなんざ…」

きっと顔も見たくねぇだろうによ、と思う。その所為か、正面からは視線を合わせ辛くて、俯きがちになってしまう。
口をついて出た言葉はどれもこれもその場しのぎで、本当は大した理由もなかった。胸の内に渦巻く言うに言えない感情を振り払うように、ただ無心に刀を振り続けていただけにすぎない。
情けなくも躊躇していたら思いの外時間が経ってしまっていたのだ。
元就の嫌悪を滲ませた瞳と向き合うのが正直怖くて、少しでも長く引き延ばそうとしていただけで。

「まぁ、良いわ…長曾我部、近う…」

元就の口から呟かれた思いがけぬ言葉に、弾かれたように顔を上げる。
夕暮れの朱に鮮やかに染まる室の中、窓縁で自分の姿をうつす飴色の瞳は変わらず険しい光を湛えてはいるけれど、揺らぐことなく真っ直ぐに己だけに向けられていた。

「――っ」

促されるように元就の側へとゆっくりと歩を進める。

「見よ、瀬戸海の夕凪が見事ぞ」

慈しむようにふわりと細められた瞳に目を瞠った。
こんな風に柔らかく笑むことも出来るのかと、驚きに目が釘付けになる。

「あ、…ああ、穏やかなもんだ…それより傷の具合は? 起き上ってて大丈夫なのか」
「貴様のいらぬ世話のお陰で大分ようなったわ。…今日は幾分、気分が良い故」
「…アンタいちいち一言多いよな…」

傍らで見上げてくる顔を覗きこめば、確かに以前は青白かった頬に薄っすらと赤みが差している。
体調が回復してきているというのはどうやら嘘ではないようだ。

「不思議な色よの、…まるで瀬戸海のようぞ」

呟きとともに此方の方へ伸ばされた細い指先がこめかみの辺りに触れる。
ひんやりとした冷たい指先の感触に思わず細い手首を掴んで元就の方へと顔を寄せた。

「指先、冷えてんじゃねぇか…風に当たりすぎも良くねぇ、布団、入れ」
「……っ…まこと心配性の鬼もあったものよ…」

くっくっと笑いながらもすぐ間近で綻んだ表情を形作る元就を前に、どくどくと知らずのうちに鼓動が速くなる。見上げてくる飴色に潤んだ双眸が瞬きを繰り返す度、理性ごと持っていかれそうで、気付けば目の前の身体を両の腕で抱き締めていた。
相変わらず力を込めれば折れそうな程に、細い。

「――毛利…」
「………」


耳元で熱の籠った声で己を呼び、力強く掻き抱いてくる男に気付かれぬ様慎重に、後ろ手に鞘から刀身を引き抜く。
そのままゆっくり男の背へと両腕を回した。変わらず口元には静かな笑みを湛えたままで。

(これで、…良い…)

男の肩先に顔を埋めながら、触れた箇所から伝わってくる心地よい体温に瞳を閉じた。
ふるりと微かに震えた瞼の先に想いを残して、鈍色の光を反射する懐刀の柄をぐっと握り締める。
急所目掛けて、ひと思いに突き立てようとした

まさに、その時だった。




「――――…っ!!」

両の手を取られ、懐刀を握り締めたままの指先に宥めるような接吻けが落とされる。
振り解こうと渾身の力を込めてもびくともせず、間近に捉えた一つ目の碧眼が全てを見透かすように、小さく哂った。
カッと頭の芯に一気に熱が集中する。

「…離……っ」
「アンタ…本当、可愛いったらねぇな。…こんな小さい刀じゃ鬼の首を獲るにゃあ、ちぃとばかし役不足だぜ?」