禍時




「もう何度目ぞ?」
「あ?」
「そう安々と、我を呼ぶでないわ痴れ者が」

ここは一体どこなのだろう。
確か自分は、居城の一室、褥の上でいつものように寝息を立てていたはずなのに。
薄暗闇の中、ぐるりと辺りを見回す。ただ一本道がずっと先まで続いているように見えた。
道のすぐ下は雲海なのだろうか、うっすらと闇が広がっているようでそれ以上は分からなかった。
ひとまず己の置かれている状況把握は後回しにして、目の前の人物に対して思考を移す。

(毛利……だよな?)

白い首筋に映える柔らかな栗毛の髪に、スッと細められた切れ長の瞳。冴え冴えとする眼光の鋭さは相変わらずだった。
普段は目深に被った兜に隠されているせいで気付きにくいが、驚くほど整った顔立ちをしている。初めて眼にした時に思わず、あんた別嬪さんだなぁと口にしてしまった程だ。
愛想のない淡々とした表情も変わらず健在で、小柄な体躯ながらも周りの者を圧倒するその気配も、凛とした佇まいもまったく変わっていなかった。
中国を統べる『詭計智将』その名を冠された―毛利元就―その人で在る事に間違いはないはずなのに。
けれども、…?

「我はあの門をくぐらねばならぬ…だがその度貴様に呼び止められるのだ」

元就が指を差す方を見れば、確かに遥か天の上まで突き抜ける門らしきものが見える。
言われてみればとその場に立ち止っているのは自分たちだけで、皆連れ立ってはぞろぞろと先の方へと歩いていくようだった。

「…あんた一人なのか?」

周りを歩いていく人の波は、二人だったり数人かであったり、少なくとも一人で歩いていこうとする姿は元就の他には見えなかった。

「…貴様が何度も何度も呼びとめるから、我の供は皆先にいってしまったわ」
「…そりゃ、悪ぃことしちまったな…」
「構わぬ…だがもう呼ぶでない」

そう言って視線をはずす姿はどこか頼りなげに見える。
普段の戦装束ではなく、柔らかい若草色の水干を纏っているからかもしれない。
朱色の飾り紐が色白の元就に良く似合っていた。

「…じゃあ、よ。俺が一緒にいってやろうか」
「―――っ」
「毛利?」
「…あれは…あの門は…」
「…?」
「あれは――の門ぞ。一度くぐれば、もう戻ってはこれぬ」
「?」

ああ、分からぬのか…と少し困ったような仕草が見てとれた。

「貴様はただ夢を見ているだけ…早う、戻るがよい」
「毛利っ」

首を傾げる姿があまりにも可愛らしくて、触れようと伸ばした腕がむなしく宙を切る。
目の前にいるはずの人なのにただ空を掠めるだけで、その姿を腕の中に捕らえようとしても出来なかった。

「…触れることも出来ねぇのかよぅ…」

己の夢のくせになんと融通の利かないことかと、がっくりと肩を落として落胆する。
現では名で呼ぶ事はおろか、想いを伝えることすら叶わなかった。ましてや触れることなど、到底許されるはずもなく。
幾度となく刃を交えてきた相手だからこそ云うに云えない事もある。
互いに国主としての立場を思えば、云ってもどうにもならない事くらい分かり過ぎるくらいに分かっていたから、何度、喉元まで出かかった言ノ葉を、飲み込んできたことだろうか。

「……仕方あるまい…我はもう……、あまり気が進まぬがあの先へ行かねばならぬ…」
「?」

どういうことだと問いかけたかったのに、時が止まったかのごとくそこでぷっつりと意識が途切れてしまった。




ゆらゆらと、船の上で波に揺られているような感覚だ。うつらうつらしながらゆっくりと瞳を開ければ、

「あ?」

目の前には憮然とした表情の元就がいた。

「…呼ぶなと言うたであろうに…」
「悪ぃ…」

眉間に皺を寄せて幾分か機嫌の悪そうな元就に、とりあえず謝っておくにこしたことはない。

「良い…我にも、未練がないと言うたら嘘になろう」

ふぅと溜め息を零して、ぷいっと横を向いてしまう。

「え…」


『ある者の時が欲しい』


「今日で最後ぞ。我はもう行かねばならぬ」

そういう約束なのでな。
誰と、とは聞くなと小さく付け加えて。

「毛利…やっぱ俺も一緒に行きてぇ…」
「…その意味、分かっておるのか?」

そう苦笑を浮かべながら問いかけてくる。

「…分からねぇ……分かりたくもねぇ…」

触れることも出来ない存在をどうにか抱きしめようと手を伸ばしてみる。こんなに近くに見えるのになんと遠く感じる存在なのだろうか。ふわり、ふわりと、取りとめのない。
けれど夢でもいいから逢いたいと、切に願ったのは自分だった。

「もう、戻れ。…そして二度と呼ぶでない。目が覚めた時、我はもうそなたの傍にはおらぬ故」
「でも…っ」


『人の世にして50年、…我のすべてと引き換えで、構わぬ』


「毛…」
「長曾我部……瀬戸海は、今日も凪いでおる」
「え…」

ふわり、と傍らに風が舞った気がした。
ゆっくりとこちらへ伸ばされた指先が己の頬に触れる。間近に捉えた双眸は透き通るように煌めいて、本当に綺麗だった。
閉じられていくそれを見つめながら、促されるように己もゆっくりと瞳を閉じる。
触れられないはずなのに、柔らかく微笑った元就からの初めての接吻は、確かに唇にその感触を優しく残した。

「……」

零れ落ちる吐息は甘く、互いに触れ合っていた部分が熱い。
何が起きたのか頭の中で理解するのに時間がかかって、ただ茫然とその場に固まってしまった自分を、突然ドンっと、元就がものすごい力で突き飛ばした。

「っ!!」

不意をつかれての仕打ちに、ぐらりと身体が傾ぐ。宙を仰ぐようにそのまま足を踏み外して、道の下に広がる雲海に背中から沈みこんだ。

「っ?!!毛利!!!毛利…っ!!!」

ずぶずぶと真っ逆さまに暗闇に沈んでいきながら、必死に手を伸ばしてその名を呼ぶ。
暗闇に呑まれて行く自分を切なげに見つめる双眸は最後の最後まで逸らされることはなくて、

「―――っ!」

そんな顔も出来るんじゃねぇかと、思わず見惚れてしまうくらいに柔らかい表情で、微笑ってた。
だんだんと掠れて行くその姿を目に焼き付けたまま、咽喉がひり付くような痛みを訴えても、ただただその名を呼び続ける。
暗闇に意識を手放すまで、ずっと。


「……貴様は、生きろ…長曾我部」

遠く静かな声で、そう、聞こえた気がした。





「…っニキ!…アニキ!!」

周りでうるさいくらいに自分を呼ぶ声にうっすらと瞼を開ける。

「アニキ!!!アニキ良かった…っおい医者の先生呼んでこい!!アニキが眼ぇ覚ましたってな!」
「…俺ぁ…」
「アニキ…四日も高熱続きで、もう駄目かもしれねぇって…」

すぐ傍で涙声混じりの嗚咽と共にそんな声が聞こえる。

(……死にかかって…たっての…か、俺は。……毛利……は…)

医者にも匙を投げられた状態の自分を、この世に呼び戻したもの。
おぼろげに意識に残る人物の声が、頭の中で反響してどうにも消えそうになかった。
脳裏に残る姿を思い浮かべる。ふわりと揺れる髪の一房ですら思い出せる程、鮮明で残酷な夢という名の現だった。

「……っ」

どうせなら。
どうせなら、いつもみたいに笑ってろよ。
平気で人を欺いて、冷酷な微笑を浮かべて嘲るように笑っていればいいのに。
そうすれば自分も割り切って、綺麗さっぱり忘れてやったのに。
あんな、顔で――
あんな顔で、それを、自分に言うのか。

「…っ…あんの、馬鹿……」

ぐっと唇を噛みしめる。視界の端に鈍く錆びついた輪刀が眼に入った。
元就の形見として手離せなくて、気がついたら勝手に持ってきてしまっていた。
別に飾るわけでもなく、放るように立てかけられたそれがここに置かれてから、幾月が経つのだろうか。



滴り落ちる鮮血に力無く崩れ落ちた身体。けれどどうしても、自分には出来なくて。
腕の中に抱いた小さな身体がだんだんと冷たくなって、形振り構わずに呼び続けて、そうしてそのうちピクリとも反応を返さなくなっても。眠るように閉じられた瞳が自分の姿を映すことはもうないと分かっているのに。
それでもその首を獲ることだけは、他の誰かの目に晒すことだけは、どうしても出来なかったのだ。

(あんたの大好きな日輪は見えねぇかもしれねぇけど、赦してくれよな…水底はきっと静かで穏やかで、あんたの眠りを邪魔する奴はいねぇと思うからさ…)

器だけの抜け殻になってしまった身体をゆっくりと海面に横たえて、己の碇槍とともに瀬戸海深くへと沈めた。

(…俺もしばらくしたらそっちへいくから、だから…、今はこいつで我慢してくれ……)

ごぼりと音を立てて、元就の身体が海の青に飲み込まれていく様をただじっと見つめていた。きっともう、聞こえないだろうけれど、云えなかった言葉をいくつもいくつも吐き出しながら。
日輪の光を反射してキラキラと眩しい程煌めく波間は、普段の瀬戸海とまったく変わらない姿で、それがまた己にはただただ悲しくて仕方がなかった。

俺、が

「…っ海の…底は…」

冷たくて、暗くて、寂しくねぇかと心配していたけれど、瀬戸海は今日も穏やかだと、そう言って笑ってた。

「……っ…」

白い肌に大輪の朱の花を咲かせて、ゆっくりと眠るように瞼を閉じた。
俺が、命を奪ったはずの人だった。


『我をもう、呼ぶでない』


そう言われた言葉を思い出して、辛そうに顔を歪ませる。
高熱でぼうっとしている頭なのに、どうしてこんなにもはっきりと覚えているんだろう。
余計に、悲しくなった。

「…アニキっ…!!アニキ、しっかりしてくだせぇ!先生早くこっちへ…っ」



『貴様は、生きろ』


―それが、望みと言うのなら。
遣りきれない想いで両の手で眼の上を覆う。後から後からあふれ出る涙が止まらなかった。

「…元就…」

もう呼ぶなと諌められた、最愛の人の名を呟いて

「…逢いてぇよ…元就…」

掠れた声音に応える者はすでになく、ただ虚しく吸い込まれるように宙へと消えていった。