月読10




大きな、戦争があった。
母の命と引き換えに一時は収まった闇の力がまた強まったせいなのだと、そこらで神官共が騒いでいた。
それは同時に他国からの武力での侵攻を意味していた。
国の基盤を揺るがす程の熾烈を極めた戦いになると言われたが、別に自分にはそんなことどうでもよかった。
(ようやく・・・終わるのか)
たとえ国が滅んで、そこで命が尽きても、それならそれで別に構わなかった。
生きる理由があるわけでもない。守るべきものがあるわけでもない。
このままただ永遠に、この国のためにと生かされ続けるくらいなら、全てが滅びてしまってもいいとさえ思えたのだ。
絶望に身を浸し、応えのない神に祈りを捧げ続ける。
(それとも今度は俺を、神の生贄にでもしてみるつもりか?)
―――神の声など、聞くことすら叶わぬというのに。
今のこの国に、あの闇の力を跳ね除けるほどの強い光はない。
この身に流れる、王の血族という血の鎖に縛られて、身動きすら出来ない自分に
ようやく訪れるであろう終焉に、安堵さえしていたのに。


(・・なん・・だと・・?)
凄惨な真実は深い闇に葬られたまま、暗黒の淵から生みだされた千年アイテム。
もたらされたその力はあまりにも強大で、王の軍勢が敵国を破ったのだと聞いた。
そして、自分の父親が、その戦いで命を落としたのだとも。
悲しいわけでもないのに、不思議と涙がこぼれた。
(痛・・・)
前かがみに胸を押さえる。痛みを生むようにズキンズキンと脈を打つ早い鼓動。
母を見殺しにした父の顔など、もう覚えてもいないというのに。
(―――・・・っ!)
それはきっと、この世界に本当に、たったひとりきりになってしまったのだと、
心のどこかで、理解したからなのかもしれない。







それからしばらくして、王の第一王子が14になったと、国中が祝賀に沸いていた。
(天命の祝祭・・・か・・)
だが、自分にはまったく関係のないことだ。
物心ついた頃から自らに許されているのは、この神殿の中にだけ限られた自由。
それがどうしてなのかは、知る由もなかったけれど。
夜の闇に冴え冴えとした身を切るような冷たさの神水に身を浸し、今日もまた応えのない神に祈りを捧げ続ける。
毎日毎日変わることなく、ただずっと同じ時間がゆっくりと流れた。
(つまらない・・世界の、くりかえしだ)
自嘲気味に口元に笑みを吐いて、虚ろに視線を落とす。
柔らかい栗色の髪からはたえず水滴がこぼれ落ち、俯いた表情は水面にゆらゆらと揺れていた。
辺りに人の気配はない。
王子の祝祭の準備に追われて、神殿内には人の姿はほとんどと言っていいほど残っていなかった。
こんな時ですら何かに操られるように祈りを捧げている自分が可笑しくて、知らず笑い声がこぼれた。
「ふふ・・・あははははは!」
透きとおる、凛とした声
その声が段々とのどに詰まって、嗚咽を含んだものに変わっていく。
「・・はは・・・・っ・・・ぅ」
涙をこぼすこともなく、何かを耐えるように声を殺しながら泣くようになったのはいつからだっただろうか。
「・・・っ・・」
親しい者も誰もいない、外界と隔てられた神殿という名の、この牢獄の中で。
祈りは届かない。絶望に突き落とされる自分自身がただそこに在るだけだ。
両手を掲げ天を仰ぐ。空に見える柔らかい月の光だけが、自分を癒す安らぎだった。
やがて、神の祈りに変わり口からこぼれ落ちた言葉は、優しい音となって紡がれた。
遠い昔、おぼろげな記憶の中、母が傍らで慈しむように聞かせてくれた子守唄。
その身に連なる、血の記憶をゆっくりとたどりながら・・。




「きれいな声だ」
「!!っ」
背後から急にかけられた言葉に驚いて、あわてて振り返る。
ついさっきまで人の気配なんてまったく感じなかったのに。
(・・油断、した。誰もいないと思ったのに・・・)
神に捧ぐ神聖な祈りの場でこんな真似、下手をしたら懲罰ものだ。
「久しぶりだな。お前は相変わらずだから、すぐ分かったぞ」
「・・・誰、だ・・?」
掛けられた言葉に訝しげに聞き返す。
ゆっくりと目の前に現れた姿に、幼き頃の記憶がうっすらと蘇ってくる。
霞みがかった記憶の中で、ただ一人だけその存在を鮮明に残して。
(・・・っ!!)
見紛うはずもない、揺るぎない王の遺志を宿した強き瞳。
目も眩むほどの金の装飾に身を包んだその姿は――
懐かしいあの頃と、何ひとつ変わることはなく。
「・・・・こんな所で、何をしておいでか・・」
王の第一王子が14になられたと、国中その祝祭に大わらわだというのに、
その主賓ともあろう人物がこんなところに居ていいはずがない。
「今日なら、お前に会えるかと思って」
ただ、会いたかった、と。屈託なくそう、笑いながら。
いくら王子といえども、神官側の権力の強い神殿内に立ち入るのは早々簡単なことではない。
確かに今日であれば、煩わしい手間をかける必要がないのかもしれなかった。
けれど、
「・・・はやく、お戻りになられよ。ここは貴方が来るような場所ではない」
自分には王子に会う理由が思い当たらないのだ。
冷たくそう返すと、少し悲しげに困ったように笑って、水の中に足を踏み入れてくる。
「・・っ・・?!」
驚いて逃げようとした腕を取られ、そのまま胸の中に抱き寄せられる。
水面がバシャバシャと大きな水しぶきをたてて跳ね上がった。
「?!何を・・っ」
「・・必ず、助ける」
「??」
ぎゅっと強く抱きしめられてから、その腕から解放される。
離れ際、頬に掠めるようなキスをされ、そのまま風にひるがえるようにして行ってしまった。
「・・・・・・っ・・」
唇が触れた方の頬を片手で覆いながらその後ろ姿を見送って、ただ茫然と立ち尽くす。
その時の自分には、王子が何を言っているのかが理解出来なかったのだ。


今までずっと、忘れていた記憶。
強すぎる力は、その身にきつく封じ込められた。精霊を呼ぶことは許されず
神殿の礎となり、王家のためにだけ生きるように、ただ祈りを捧げ続けるようにと、
まるで身を縛る呪いのようにそれは繰り返された。
繰り返し繰り返し心に刻みつけられた、身勝手な闇の呪縛。
それは断片的に、幼い自分自身の記憶さえも封じることとなってしまっても。
(た す け て・・)




「見つ・・けた――」
力の欠片が反応した方向を目で追いながら、繋いでいた馬の、セトが乗ってきた方の手綱を解く。
「お前は先に帰るんだ」
言葉が通じているかどうかは分からないけれど、優しく身体を撫でてやりながらそう呟く。
たとえどんなに文句を言われようとも、この腕の中に連れて帰ると決めたから。
走り去る姿を見送って、自らの乗ってきた馬に無言で跨り、ゆっくりと走りだす。
ここから南西の方角。そんなには遠くない。
ふと見上げた空にはもう長い夜が終わって、だんだんと白んだ朝焼けが広がりはじめていた。
『共に、生きよう』
あの時、言いたくても言えなかった言葉。
幼かった自分には、それを伝えることがどうしても出来なかった。
でももう、今は違う。
胸にある千年錘を、王の証を固く握りしめながら走る。
迎えに、行こう。
闇に心を囚われたままのセトを解放することが出来るのは、王である自分しかいないのだから。