月読8




王の安息だけを願うために作られた神殿内は、どこかひんやりとした冷気を滲ませていた。
普段ならば、人が訪れることはないであろうその場所に、カツンカツンと乾いた足音が反響する。
いくつかの人の影が通り過ぎると、音は壁に吸い込まれるように消え、そうしてまた静寂が辺りを包んだ。
王の墓にはその侵入を阻むように、幾重もの罠が張り巡らされている。
けれどその罠のすべてを、知り得もしないことのはずなのに、頭の隅で理解している自分がいた。
それはきっと、何かに導かれるように。
まるで、王墓が自らの前に道を開いているかの如く。




ツクヨミ8




(ここが、最奥の部屋・・)
「てめぇが先だ!・・早く行け!」
三人の男に促される様に、アテムは神殿の中心部へと足を進めた。
自らの求めるものも、きっとそこにあるのだと、確信にも近い想いが胸をよぎる。
高い天井に、狭められた通路には両脇に石の壁がそびえ立ち、王墓へと長い回廊が続いた。
壁面には自分には見慣れた文字が並ぶ。
古代エジプトに於いて、ヒエログリフ―神聖文字―と呼ばれるそれが、壁一面に彫り刻まれていた。
王の魂の安らぎを謳う、死者の書の第一小節。
現世の傷を癒し冥界へ旅立ったあとも、神となりて再びこの地に戻られるようにと祈りをこめて。
(・・セト――)
優しく紡がれるその言葉を思い出して、愛おしそうに目を細める。
あの日の夜。
子守唄さながら、眠りに落ちる自分を慰めるように、延々と捧げられた祈り。
頭上から降りそそぐその声を、いつまでも聞いていたくて、眠ったふりをして、聞こえないふりをしながら、その囁きを聞いた。
目を開ければきっと、途切れてしまうと分かっていたから。



「あーあ、しかしついてねぇよなぁ。あーんな上玉、そうそうお目にかかれるモンじゃねぇのによ・・」
後ろからついてくる一人が愚痴のように零す。
なー、俺らも味見したかったぜ、と相槌を打つように品のない笑い声が響いた。
あれなら奴隷商人にもいい値がつくだろう、と。
「・・!」
案に、セトの事を揶揄しているのだと分かって、アテムの表情に一瞬殺気が走る。
けれど、ああ見えて大の男をその細腕一本で平気で投げ飛ばすような奴だ。
すぐにふっと小さく笑って、
「・・・あれは相当じゃじゃ馬だから、貴様等の手には負えんかもな」
「・・ああ?」
一体何を言い出すのかと、互いにぱちくりと目を見合わせる。
完全に魔力を封じられたあの状況下でどうこう出来るはずがないのだ。
「何言ってんだてめぇっ」
ギャハハハと馬鹿のように盛大にふき出した男どもを横目に、無言で足を進めた。




(力の、欠片はおいてきた・・)
気付かれては、いけない。
あからさまにその身に守られることを、極端に嫌う性質だ。
余計な世話だと、突っぱねられるのが目に見えているから。
(手の・・焼ける・・)
だがそれすらも愛しいのだと軽く笑いながら、きゅっと自分の唇に指をあてる。
小さく囁かれた言葉は、ふわりと風に乗って消えた。
セトに危害が加わることはない。
むしろおとなしく、この腕の中で守られていてくれるような性格ならば、こんな気苦労もなかったのではないかとも思う。
(やれやれ・・)
そう思いながらも、ついつい緩んでしまう口元が、想いの深さを物語る。
『貴様の助けなどいらん!』
そんな罵声が今にも聞こえてきそうで、でもその素直じゃない、はねっ返りな所もたまらなく可愛いとさえ思えてしまうのだから
もう本当に、どうしようもないのかもしれない。
(・・末期だな・・)
自らのことながら至った結論に、呆れるように小さく笑う。
自嘲気味に口元を歪めながらも、愛しい者を想うその瞳は、限りなく優しい。


ただひとつ気にかかるのは、宿屋で見せたあの力の片鱗。
過去に一度だけ見たことがあるかもしれないと、遠い日の記憶を探る。
(あれは確か・・・セトの母親が・・・・)
もしもあの時のままなのだとしたら、再度今、呼び起こしてしまうきっかけになったのは・・
(・・俺・・か・・)
その答えに、嬉しいような、切ないような、何とも言えない表情を浮かべる。

大切なモノを失くすことへの純粋な恐怖。
孤独に対する怯え。
渦巻いた負の感情から生まれる声にならない悲鳴。
それが、あの力のかたち。

側にいて欲しい、抱きしめて欲しいと、言えるのなら
すぐにでもそうしてやれるのに。
もどかしいほどに、想いだけがただ降り積もる。
気付かない振りをしたままだったなら、逃がしてしまえたかもしれないけれど。
でももう、気付いてしまった。
あの、ぽつりと小さく名を呼ばれた夜に。
『お前は私が好きだと言ったが、この姿でも変わらぬと言うか!』
久方ぶりに見た青い双眸は、以前見た時と寸分変わらぬ、透きとおった深い輝きをはなっていた。
まるで奇跡とさえ謳われる、ナイルの青い宝石のように。
手に、入れたいと思った。
手を、離してはいけないと、強く――――
(セト・・)
だからこそ今、自分はこんなところで立ち止っているわけにはいかない。
今すぐにでも、迎えに行かなくてはならないのだ。
きっとまた、独りで泣いている

あの、はねっ返りのじゃじゃ馬姫を。




長い回廊を抜け、光の先に開かれた祭壇に、答えはあった。
ひっそりと静かに、ただ王が来るのだけをじっと待ち続けたその姿が。
(・・!)
ゆっくりと奉られた祭壇に近づき、千年錘を手に取る。
(父上・・)
瞳を閉じて、瞼の裏の懐かしい姿を思い浮かべる。
その問いかけに応えるように、柔らかい光が辺りを包み込んだ。
導くように優しい声が、直接心に語りかけてくる。

《王となれ。誰よりも強く、正しき道に導けるよう、白き、光と共に・・》


《いつまでも、お前のことを愛しているぞ・・・》







「なんだぁ?・・お宝が全然ないじゃねぇか!」
それを目的として、後ろからついてきた男どもが騒ぎ始める。
「・・・・当然だ。・・ここにはまだ、王は埋葬されていないからな」
何故ならばここは、自らを奉るために作られた葬祭殿なのだから。
手のひらに伝わってくる、優しいぬくもり。
《正義は神の名のもとに・・》
「貴様等には・・神の鉄槌をくれてやる」
手にした千年錘を首にかけ、振り返る。
王の遺志を宿す、まっすぐな瞳で。
「・・神・・だと?てめぇ一体・・っ」
リィンとその声に呼応するかのように、千年錘が淡く輝きだした。
「・・・王の、名のもとに・・!」
カッと見開かれた瞳が、すべてを貫く強き光を呼ぶ。
その額には金色に輝く真実の眼が、くっきりと浮かび上がっていた。
「?!・・っま・・さか・・!」
神の名、それは・・・
「来い・・!オベリスク!!」
右手を天にかざし、猛々しいその姿を喚ぶ。
大地が割れるかと思うほどの轟音がとどろき、怒りの波動に身を震わせる青い光に包まれた神が姿を現す。
「我がしもべたる三幻神がひとり、オベリスク!・・・神の前に、ひれ伏すがいい!!」
天より降臨した神を従えるその姿は、まさに王たる神そのものである。
怒りに燃える強き光を身に纏って。
「・・っ・・・・!!」






その光景を目の当たりにして、震えたまま声も出せずにその場にうずくまり、あるいは気を失ってしまった奴らを
横目に無視して、急いで入口へと戻る。
自分がおらずして、王墓から抜け出せるかどうかなど、知ったことではない。
こんな奴らに構っている時間の、一秒すら惜しい。
(セト!!)
「来い、オベリスク!」
神を従えたまま急ぎ戻ったその場所で、目に広がる光景に愕然とする。
そこら中に叩きつけられた血の痕跡。
もはや人の形を留めないほどに粉々に砕かれた肉の欠片。
「・・なに・・が・・」
魔力を封じられたはずのセトの身に一体何が起こったというのか。
ゆっくりと砂の風が覆い隠していくその憐れな躯の中に、想い人の姿はない。

「どこ・・に・・いる?」




(セト―――!)