月読9




以前にも同じような光景を目にしたことがある。
あれは・・
(セトの母親が神の器に・・なった・・)
ただ悲しみを受け入れて、孤独に心を震わせながら
声を殺してひとりで泣く小さな子供に、何が出来るというのか。
覆ることはないとわかっていても。
たったひとりの母親を、連れて行かないでと、虚ろに繰り返すのを一体誰が咎められようか。
幼い心に刻まれた傷は確実にその身を蝕み、
暴走してしまった力はとどまることを知らずに。
深い絶望から生まれた嘆きは、いっそ全てを無に帰すかの光で貫いて




ツクヨミ9




唇に触れる冷たい水の感触に重たい瞼を開けると、目に飛び込んできたのはギラギラと燃える様な瞳をした、銀髪の男の姿だった。
日に焼けた肌に、精悍な顔立ちをして、引き締まった身体には砂漠で生きる者の逞しさが見てとれる。
歳は自分と同じくらいだろうか。
おー、気がついたか、と笑うその右頬には縦に走る痛々しいほどの大きな傷痕があった。
(・・誰だ・・・?)
何枚か重ねられた飾り布の上に自分は寝かされていた。身体の上には目の前の男が着ていたのであろう上着が掛けられていて。
まだぼーっとしている頭で、辺りを見回す。うすら暗い中にゴツゴツとした岩壁が見える。
「・・ここ・・は・・」
「すぐ近くにあった洞穴だ」
あんたがいきなり倒れるから、ここまで担いできたんだぜ、と。
「俺は・・どれくらいこうして・・・」
気を失っていたのだろうか。
あれからどれだけ時間が経ってしまったのか・・。
早く王の元へ向かわなければ。
上手く力の入らない体をなんとか起こしながら、ふと自らの姿に違和感があることに気づく。
キラキラと光沢を放つ布地に、飾り物がシャラシャラとついた衣服。
「・・・・女物の・・服・・?」
「あー、悪ぃな。手持ちにそんなんしかなくてよぉ。それでも、お宝の戦利品なんだぜ?」
まぁ似合ってるからいいじゃねぇか、そんな軽口が聞こえてくる。
「・・なんで・・」
若干納得のいかない、といった憮然とした顔で聞き返す。
「まーそう言うなよ。あんた全身血まみれだったから、慌ててひん剥いたらぜーんぶ返り血なんだもんなぁ」
驚いたぜ、と付け加えて。
「・・・返り・・・血・・」
今はもうすべて綺麗に拭われてはいるが。
(そうだ・・・)
頭のどこかで、うっすらとだが覚えている。
まだこの手に残っている、生温かい血の感触。
「っ・・!!」
止められなかった。
自由の利かない意識の中で、ただ見ていることしか出来なくて。
カタカタと小刻みに震える手のひらをぎゅっと握りしめる。
自らを落ちつかせるように、小さくひとつ息を吐いてから、
「・・・・助けて・・もらったことには、礼を言う。」
自分をあの淵から呼び起こすきっかけになったのは良くも悪くもこの男なのだ。
それが何を意味するのかは分からないけれど。
「・・ふーん」
「・・・なんだ?」
腕組みをしながら高い位置から見下ろしてくる不躾な視線に、どこか嫌な空気を感じ取ってセトが聞き返す。
「俺サマ本業は盗賊なんでね。タダ働きはしねぇし、報酬もらっとかねぇとなぁ」
「・・・っ何を!」
肩を掴まれて無理やり地面に押し付けられる。正確には地面に敷いてある布の上にだが。
強く押さえつけられて、その衝撃に一瞬目が眩んだ。
「・・はな・・せっ!!」
自由を奪うように身体の上に圧し掛かってくる男を、きつく睨みかえす。
「いいな、その瞳。・・・やっぱ意識のない奴抱いても面白くねぇもんな」
顎を掴まれて顔を向けさせられる。合わされた視線に満足そうにそう呟いた。
「せっかく綺麗に着飾ってやったんだ・・。愉しませろよ?」
「っ―――!!!」
ニィっと口元に薄く笑みを引いて見下ろしてくる、闇色の瞳。
それに吸い込まれそうで背筋にゾクっと寒気が走る。獲物をいたぶる獣の目、だ。
「やめ・・っ!!」
抵抗する力に反発するように引き攣れた柔らかい布が、ビリっと鈍い音をたてて裂ける。
「それにしてもあんたほっそいなぁ。ちゃんと食ってんのか?」
腕の下に組み敷いたその身体をまじまじと見つめながら。
「っ・・よ・・けいな世話だ!」
両側に深く切れ目の入っている服の合間から、太腿を撫で上げてくる無骨な手の動きに、ざわりと肌が震える。
「っ!」
つい最近知り得た覚えのある感覚に、知らず身体が反応を返した。
「・・・・・・っやめろ!!!」
振り切るようにぎゅっと固く瞳を閉じてから、思いっきり力を込めて、蹴り上げる。
当たらずとも相手が一瞬怯んだその隙に、どうにか腕の中から抜け出した。
破れた服を胸の前できつく握りしめて、唇を噛みしめる。
「・・・おれに・・触る・・な・・・・」
暗闇に全てを委ねてしまいそうで、言い知れない恐怖が広がる。
そして絶えず目に浮かぶのは、先程の血にまみれた惨状。
思いもよらず、また誰かを傷つけてしまうかもしれない・・・。
「・・・あんた、何に怯えてる?」
「っ!!」
「自分に、触れられることじゃねぇだろ?」
空を仰いだ赤い瞳――
絶望にも等しい狂気に身をさらしながら、俺にはそれが、
寂しい、と泣き叫んでいる様にさえ見えて仕方なかった。
すべてを終わらせたい、と。
「黙れっ・・!!」
心を見透かされているようなその問いに、青い双眸が不安を滲ませて揺らめく。
「あの時のあんたを、もう一度見たい」
だがそれすらも霞んでしまうくらいに、血にまみれ闇に身を染めたその姿は、
いっそ凄絶な程に気高く、―――そして何よりも美しかった。
「・・・・・っ!!!」
伸ばされる腕を、振り払うことも逃げることも自分には出来たはずなのに。
ゆっくりと壁際に追い詰められ逃げ場を失う。
自分にだけ向けられる闇色の瞳。
広がっていく暗黒がその場を支配して、重苦しい気配が辺りを覆いつくした。
「俺のモノになれよ・・」
徐々に近づいてくるその光景を、ただ為すがまま茫然と見ていることしか出来なくて。
言い表せない恐怖がその身に宿り、動くこともままならず
見開かれた青い瞳からはひとすじ、絶望の嘆きがこぼれ落ちる。
(・・俺・・は・・・)
闇に身を浸すことを許したら、自分はどうなってしまうのだろう。
いっそ楽に・・・なれるのだろうか。


(・・俺は・・何を、恐れ・・る・・?)
ダメ・・だ。
これ以上ここにいてはいけない。
これ以上ここにいたら―――
(・・だれ・・・か・・)

闇に、魅入られる。

た す け て







名を呼ぶように、微かに震えた唇に触れようとした、瞬間、
ドンッという激しい風の渦とともに白く強い光に弾き飛ばされる。
「・・・っなんだ?!」
目の前にはセトを守るようにバサっと大きく翼を広げた空中に浮かぶその姿
(・・・・鳥?・・・白い隼ってまさか・・・)

白く光る隼は天空神ホルスの化身とされる、神である王の御使い。
闇を切り裂く、強き、揺るぎない光。
「・・・ファラオ・・?」
その光景にただ呆然と呟く。
こんなこと、頼んだ覚えも、許した覚えも自分にはなかった。
助けてほしいなどと、今まで一度でも口にしたことはないのだから。
(―――まさか・・)
ただひとつ、思い当たる心当たりがあるとしたら、
王家の谷に降り立った時のあの一瞬のやりとり。
『元気の出る、まじないだ』
(・・・・・・)
自らの唇に指を当てて押し黙る。
言えば拒むと分かっていたんだろう、だから自分には気づかれないように、と。
「王、だと・・?」
「白き隼は王の御使いだ・・」
宙に浮かぶ姿に、おいで、とその細い指先を伸ばして、右腕に引き寄せながら言う。
そんなことは・・・
自分にだって分かっている。
この国の最高権力者であり、自らの復讐の成すべき相手。
(・・ってことは・・・王サマに守られてんのかこいつ・・)
「身体に結界なんて、てめぇ何モンだ?」
「・・・別に、俺は・・ただの神官だ・・」
「・・神官・・」
平たく神官と言えどもピンからキリだ。民衆に無為を働くような輩もいる。
けれど、王の想い人ともなるともうすでに位が違う。
それに見合うほどの、おそらく神官と呼ばれる者の中でも、最高位の位――
(王都の・・・大神殿の神官サマかよ・・!)
確かに言われてみれば納得してしまう。
外見が上品すぎるというか、指先の動きひとつですら綺麗だと思った。
返される反応もいちいち純粋すぎて、自分の目には眩しすぎる。
壊れない様に、傷つかない様にと、大切に大切に守られてきたんだろう。
だからこそ、どんな風に壊れていくのかを、見てみたい気もするが。
(王サマのお気に入り・・・か)
でもなぜか、おかしな違和感も感じる。
先程垣間見せたあの力のことといい・・
(闇に近いっつーか、神官サマって割には『神様信じてます!』って感じじゃねーんだよな・・)
時折見せる昏い瞳の輝き。温室育ちのはずなんだろうに。
知れば知るほど、その見た目とのギャップに驚く。
(ほんと、おもしれぇ奴・・・)




「・・・・っ・・」
抱き寄せた王である白き鳥の、背に深く刻まれた大きな傷痕。
今までどうして、忘れていたのだろう。
遠い昔の幼い約束。
大神殿の神官として生きることを決められたあの日に。

行 か な い で 

『僕が・・』

ひ と り に し な い で

『僕が、そばにいるよ』

自分でもどうにも出来なかった力は、神の御子を傷つけた。その背に大きな傷痕を残して。
衝撃に意識を失った自分は、そのまま命を絶たれてもおかしくなかったのに、
自らの身に流れる王家の血の重さと、何よりも王子自身がそれを拒んだのだと聞いた。
カルナックの大神殿に遷されることになったあの日。
今までとまったく変わらぬまっすぐな瞳で笑って、
ただ一言
『必ず迎えに行くから』
と、言ったのだ。